不可能に向けて書くこと:長野まゆみ『テレヴィジョン・シティ』論

長野まゆみという作家がいる。1988年に『少年アリス』で文藝賞を受賞、その後は硬質な文体と特徴的な旧字体とで、耽美的な世界を描き人気を博した。初期の小説は幻想小説のような作風で、兄弟や親友同士の精神的なつながりを主題としていたのが、のちには肉体的なつながりを露骨に描くものも増えた。いまは「カルトローレ」のような初期とはまた異なるファンタジーを展開させている。いわゆるボーイズラブ小説としての受容(需要?)はこの作家にとってすでに過去のものなのかもしれない。ところが私は、まさにこの長野まゆみの初期作品のファンであり、この作品群に特別な思い入れを持っている者の一人である。この小論では、そのなかでもファンから一定の評価を受ける長編小説『テレヴィジョン・シティ』について語り、その可能性(あるいは不可能性)について提示することを試みる。

なお、この作品の初出1992年であるが、本稿の考察は1996年発行の文庫版に基づく。また、本稿で用いる様々な括弧は、作品そのもので用いられるものと同様である*1

不可能の物語:円環的構造と外部の不在

まずは、簡潔にあらすじを紹介しよう。物語の舞台は、〈鐶(わ)の星〉と呼ばれる人工的な構造体=ビルディングである。このなかに住んでいる《生徒》の一人である、少年アナナスは、ルームメイトの少年イーイーとともに衣食住や娯楽が完全に統制された日々を送っている。そこでは、〈鐶の星〉から十五億キロ離れて存在するという《碧い惑星》の環境が再現されているといわれている。しかし、作中ではイーイーや他の《生徒》によって《碧い惑星》の不在が仄めかされる。また、記憶操作によって洗脳を施されたアナナスも、色々な出来事を経て〈鐶の星〉の本当の姿を知っていくことになる。物語が進むにつれて、完璧に思われたビルディングは機構は次第に崩壊していく。そして少年たちは、それぞれ複雑な思いを胸に秘めつつ、ビルディングからの脱出を試みる……

と、強引に要約すればこのような物語である。結末はどうかというと、結果的にいえば主人公らはビルディングから離脱することができない。それどころか、物語の始まりへと円環的につながるように書かれたエンディングには虚無感すら漂う(手もとにこの本がある人は、物語の最初と最後の手紙に付された日付に注目されたい)。外部なんて無い、本当のものなんて無いのだと、我々に強く知らしめるかのようだ。まるで少年らの心情の行き交いすら、彼らの葛藤や嘆きすらもまったく無かったことのように感じられてしまう。

そもそも、この作品には「外部」が存在しないのだと、作者自身が語っている。『テレヴィジョン・シティ』の文庫版上巻に付されているインタビューで、長野まゆみは次のように応えている。

(インタビュアー) 《離脱》というのは、たとえばビルディングとか身体といった内部的なものから「外」へ向けての運動なわけですけれども、長野さんの作品では、なぜか「外」というのは決して描かれませんね。

(長野)わたしが書くものには内部という空間しかなく、外部は存在しません。ただ、内部を破ってどこかへ行こうとする動きが、存在するのです。けれども、内部を突き抜けたところが外部かどうか判らない。また内側へ戻ってしまうかもしれない。もし、少年たちが外部へ向かうことができるとしたら、『テレヴィジョン・シティ』は、きっと一〇〇〇枚も書かないうちに終わっていたんじゃないかと思います。出られないのに出ようとしているから、こんなに長くなってしまった。

テレヴィジョン・シティ』上巻 p. 356(インタビュー「ことばは消えても文字は残る」)

アナナスは、ロケットに乗ってついにビルディングを離脱できたかと思えば、同じビルディング内の他の施設にたどりついただけなのだった。長野まゆみが言う外部とは、到達したかと思いきや既知の内部に取り込まれてしまっているような場所、すなわち「不可能な場所である。つまり我々はこう言ってもよい。『テレヴィジョン・シティ』とは不可能の物語なのである。

内部の欠如と自分探し

ここまで読んで、『テレヴィジョン・シティ』とはなんと希望の無い物語なのかと、読者は思われたかもしれない。だがしかし、この物語は同時に、他なる可能性をも示しているのだと私は考える。そもそも、私たちはなぜ外部を求めるのだろうか。それはきっと、「いま・ここ」に満足できないからである。いつか、ここでないどこかでなら、私は幸福になれるはず。そのような希望が外部を要請するのだろう。しかし、「希望」という感情が本質的に「不安」と隣り合わせであるように、外部の希求は内部の欠如と隣り合わせでもある。このことを教えてくれるのは主人公アナナスのルームメイト、イーイーである。彼は物語が終盤に近づくにつれ、次第に身体を衰弱させていく。ほぼ瀕死の状態に陥った彼は最後に、アナナスに手紙を残す。その一部が印象的に響くのである。

匂いやボディさえ、アナナスにとっては無意味だ。きみが獲得するのは真に自由で解放された感覚。抹消された記憶の空白は、何も書かれなかった頁と何ら変わらない。ビルディングを出るというのは、そういうことサ。躰や精神、音声や映像、それらの結びつきには何の法則もなく、安定性もない。きみは好きなときに好きなものを見、聞き、感覚を自分のものとすればいい。自らすべての拘束を解いて、きみはこのビルディングからこそ《離脱》して行くんだ。

(中略)きみの云うとおり、碧い惑星はあるにちがいない。否、なければならない。

テレヴィジョン・シティ』下巻 p. 325

《碧い惑星》など存在しないのだと、イーイーはしきりに言い続けていた。《碧い惑星》には《生徒》に共通の親(アナナスにはママ・ダリア、パパ・ノエルがいるとされる)が住んでいると彼らは教育される。記憶操作によってそれを鵜呑みにし、この架空の親に対して届かない手紙を送り続けているアナナスを、彼は哀れんでさえいたのである。それなのに、この発言はどうだろう。ここまで物語を追ってきた読者にとって、それは気味が悪いほどに希望に満ちあふれている。これは、絶望的な状況における空虚な勇気づけなのだろうか。実態に欠ける、たんなる言葉でしかないのだろうか。

アナナスは生まれつき嗅覚と味覚を感じない。また、身体的な能力もやや、他の《生徒》より劣るようだ。アナナス自身が劣等感を抱いていたそれらの「欠損」について、イーイーは、そんなものは無意味なのだと言っているようだ。欠損にとらわれない、もっと自由な感覚があるのだ、と。健常な身体との比較をやめて各々がもつ差異それ自体を認めるならば、欠損という概念それ自体が失われるはずである。このとき、健常も欠損も存在せず、全ては純粋な差異となるのである。

また、こうも言えるだろう。私たちは皆、自らの身体が有する本性を超えた感覚を想像し、それと比べる限りにおいて、度合いの違いこそあれ不自由なのである。今はあまり聞かなくなったが、一時期には流行した「自分探し」もまた、同様の構造をもっているといえよう。「自分探し」をする人々は、「いま、ここの私」ではない架空の存在である「本当の私」を超越的に定立し、それを見つけ出すことを欲する。だがそのような欲望は、けっして満たされることがない。なぜだろうか。「本当の私」はつねに私の外部にあって対象化されていなければならないのだが、しかしその一方で、たとえ私が出会いによって触発され、私になにかしらの変化が生じようと、それは即座に「いま、ここの私」に取り込まれてしまう。こうして、「本当の私」と「いま、ここの私」は決して出会うことがないのである*2。したがって、「自分探し」とは本来的に、けっして終わることのない試みということになる。ところで、ここで言う「本当の私」は、「本当の幸せ」「本当の喜び」などと交換可能であることは言うまでもないだろう。このような試みはすべて失敗する運命にある。

《碧い惑星》への帰還

では、「いま、ここの私」を「本当の私」の影にしないためには、どうすればよいのだろうか。理想に縛られず自らを肯定するとは、いったいどのようなことなのだろうか。ここで私たちは一つの反転を見ることになる。少年らにとって真に必要だったのは、内から外への《離脱》ではなかったのだ。それはじつは、外から内への《帰還》だったのである。イーイーはおそらく、どこか遠くにあるとされ、触れることの叶わない《碧い惑星》を、ビルディングの外部ではなく内部に見たのではないだろうか。そうなれば、ビルディング内で生じる現象はすべて、《碧い惑星》の再現などではなくなるはずである*3。外部を求めてさまようのではなく、たんに生きる場所を変えていくこと。本質的に何もかもが変わってしまう特異点など存在しないということを認め、むしろ、あらゆるものは刻一刻変化し、一定のものなど何一つないということに気づくこと。この世界はどこもかしこも内部で出来ているということから、平安と刺激とをともに受けとること……

しかし、この内なる《碧い惑星》に至る方法とはいかなるものであろうか。問題点はいくつもある。全ての差異を肯定することは、たんなる現状維持や停滞へと陥ってしまうとは考えられないか? 外部という規範を失ったうえで、私たちは何を望むべきなのだろうか? 私たちは誤魔化すことなく、これらの問いを生きなければならないだろう。作中で少年らがビルディング内をひた走るように、ヴィジョンとヴォイスの新しい結びつきを体感していくように。

たしかに、規範それ自体はなんらかのかたちで担保されなければならないだろう。だが少年らの軌跡を辿りながら、いま、こう考えてよいのではないか。規範は私たちが自らを保存しようと努める力によってボトムアップ式に構成されうるのではないかと。そのとき、問いは「私たちは何を望むべきか」ではなく「私たちは何を望んでいるのか」となるだろう。というのも、いままで私たちが依って立っていた規範は外部に存在せず、私たちの内部にこそ見出されなければならないからだ。かくして、私たちは自己知の問題へと再び帰ることとなる。もちろん、それは先に述べた「自分探し」のように、外部や対象のうちに見出されるのであってはならない。だがしかし、それはいかにして成されるのだろうか? 最後にこの問いを、もう一度『テレヴィジョン・シティ』へと送り返してみよう。*4

フィクションと手紙、書くことをめぐって

いうまでもなく、物語とはフィクションである。とりわけ『テレヴィジョン・シティ』は、二重の意味でフィクションなのである。というのも、この物語を書き出す以前には作者自身、少年らの行く末を予想していなかったはずだし、作者はこの作品の全てをコントロールできてなどいなかったからだ。「小説家」とはつまるところ偉大なる「嘘つき」であるのかもしれないが、結果として生み出されるテクストには新しい真実が示される。『テレヴィジョン・シティ』を書く長野まゆみはこの事実に対して意識的だったといえる。というのも、このことを証し立てるある重要なアイテムがこの作品には頻出しているからだ。それは「手紙」である。

アナナスは作中で、数えきれないほどたくさんの手紙を書く。彼ははじめ、自分が正しいことを書いているのだと思いこんでいた。しかし、それは間違いだったことがわかる。アナナスは記憶操作を受けており、そもそも手紙を書くという行為それ自体がシステムによって差し向けられたものであった。しかし、いくつもの出来事を経験することによって彼は、自分が手紙に書いていたのが意図せずに吐いた嘘であったことを悟るのである。しかし重要になるのは、この次の段階だ。アナナスはさらに発見してしまう。そもそも、手紙には嘘しか書くことができないということを。考えていることをかたちにする時点で、かたちになる依然のものが失われてしまうのだということを。そして驚くべきことに、アナナスはさらに新しい段階へと進む。それは「ただ書く」という行為である。彼は、手紙を、倦むことなく書き続けたのである。本当に届くのかもわからない、なにを意味しているのかもわからない手紙を、ある時は混乱しつつ、ある時は意志に反しつつ書き続けたのだった。*5

このアナナスの姿は、作者自身と重なることは言うまでもない。作者は、これから書く物語が不可能であることに気づいていた。また、物語を思ったように展開させることもできなかった。それでも作者は書き続けたのである。この原動力はいったい何だったのだろう。それはあるべき姿、理想に向かうものではなかったと思う。いまだかたちをもたないものに、かたちを与えるようなもの。いや、この言い方もおそらく適切ではないだろう。それはあるものが、それ自体に含まれる可能性を自ら展開させるような力である。そうして描かれたものは何だったのだろう。はじめから帰るべき場所=真実をもたず、親すらもたない少年たちが、システムに翻弄されながらその剥き出しの生を生きようとする姿である。「『テレヴィジョン・シティ』とは不可能の物語なのである」という私の言葉は、ここに至ってはじめて、肯定的な意味合いを帯びることになる。

終わらない夏休み

とはいえ、長野まゆみとアナナスは、この小論で示されたような可能性についてまとまった答えを出すことができなかった。あるいは、彼ら自身はその可能性に気づいてすらいなかったのかもしれない。挙げ句の果てに作者は、行く先がまったく見えず限りなく膨張していくこの物語を、終わりと始まりとをつなぐことによって、かろうじて反-完結させたのである。しかし、苦肉の策とも思えるこの飛躍が、思わぬ可能性を生み出すことになった。これによって少年らは永遠の夏を生きることになったのである。これはおそらく、空虚な繰り返しではありえない。幾度となく反復しようと、すべての夏はけっして同じものではありえないからだ。彼らは次第に自由に近づくだろう、アナナスの手紙が次第にその文面を変え、自らの不自由に向き合っていったように。空虚な理想やシステムに捕らわれないために、まず私たちがしなければならないのは不可能に向けて書くことであり、語ることである。


(はしがき:これはかれこれ七年くらい前にとある同人誌に書いた文章。ブログに掲載するに際して、無理矢理見出しをつけて、明らかな誤字脱字を直して、一つだけ段落を補った(注4を参照)。とはいえやっぱり破綻してるし、可能/不可能の意味にかなり揺れがあると思う。それでも『テレヴィジョン・シティ』にある構造はちゃんと取り出せている気がするし、こんな昔から割と同じことを考えてたんだな、と個人的には感慨深かったので載せてみた。)

以下の注はブログに上げる際に付け加えたもの。

*1:TVcについては、野阿梓がエッセイ「隠喩としてのビルディングとその解体」を書いている。初出は河出書房新社『文芸』だがネットでも読める(http://noah.in.coocan.jp/review.htm)。めちゃ面白い論考で当時の僕も影響を受けた。でも彼女はアイデアを提示するだけで全然展開しないから本稿にも意義があるはず。ちなみに当時は『地球へ』も『スラン』も読んでなかった。それは文章にネガティヴな仕方で現れていると思う。でも今でも、これをミュータントものとして読むことには疑問があるのでそれでよかったのかもしれない。

*2:この「自分探し」論はわかるようでわからない。本稿全体に対して言えることだけど、外部と起源(あるいは理念)の関係がちゃんと示されていない。というか、この二つが同じように語られるのがTVcの面白さであるはずで、ほんとうならなぜそのようなことが可能となったのかを考えるべきだったと思う。

*3:たぶん表象=再現前(representation)批判をしたかったんだろう。

*4:この段落は付け加えた。ここは元々は空白で、いきなり手紙論に移っていた。でもこのように補っても、理念批判・表象批判・ノスタルジー批判(そもそもこれらをごっちゃにして良いのか?)がなぜフィクション論に結びつくのかは全然明らかではない。

*5:ほんとうは当時、手紙についてはザミャーチンの『われら』とセットで論じようとしていたんだけど、断念した思い出。ユートピアディストピアものとしてのTVcという側面も強調すべきだったとは思う。