書きかえられないストーリーと熊の場所

なにを思ったのか『白鯨伝説』を観ている。あまりの疲労に頭がおかしくなり、前触れもなしに新山志保の追悼キャンペーンを始めたのである。『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』も新山志保が降板する21話まで観た。あなたのディートリットはわたしの原体験でした。

それはさておき、『白鯨伝説』第5話に自分の好みドンピシャのシーンがあった。備忘録として残しておく。主人公のラッキーの故郷の星を滅ぼそうとする惑星破壊兵器「白鯨」は、宇宙船を率いるエイハブ船長の過去のトラウマとしても残る因縁の兵器であった。ラッキーのせいで封印していた記憶を呼び戻されてしまったエイハブは、どうにかして白鯨のことを頭から振り払おうとする。彼は子どものように怯えていた。だがしかし、ついに観念する。

「どんなに安っぽい映画にだって、ストーリーはある。そして、どんなにちびた人生にだってストーリーがある。俺は、その書きかえられねえストーリーを消そうとしてた。忘れようとしてた。面白おかしくのんびりやってりゃ、いつかはきっと消えると思ってた。だが、消えねえもんは消えねえなあ」


「話しちまえ、エイハブ! お前と白鯨には、何があったんだ!」


「話すさ。俺は話す。やっと決めたんだ。他人様に話してえ。傷口広げてえ。そうよ、なんにも怖がることはねえ。先のストーリーは、自分でつくりゃあいいってことだったんだ」

わかるようでわからないこの台詞をエイハブ船長は、寂れた映画館のなかで、古い映画のエンドロールを眺めながら言うのである。映画館のなかでのシーンならなんだって好きだというのはある。『デモンズ』然り、『マウス・オブ・マッドネス』然り(あれ、なぜかポジティブな場面が思い浮かばない)。でもこれはさらに「熊の場所」要素もあって高得点だった。

熊の場所」といえば、やはりアイカツ!』第113話「オシャレ☆ヴィヴィッドガール」(山田脚本)である。過去の失敗やトラウマ、逃げてしまった経験が、それが起こった当の場所に立ち向かうことで解消される。新条ひなきはかつて思いつきで、思いっきりジャンプして、そしてステージに出来た水たまりに滑ってしまった。このトラウマから、彼女は自然とまわりを見渡し安全な策を打ち、自分の特色を目立たせることを避けるようになってしまったのである。だが、あかりやスミレのおかげでまた弾けられるようになった。そして迎えたデザイナーのKAYOKOに対するリベンジ。反復されるひなきのスリップ、そこで魅せるヒラメキよ!*1

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105話と113話のスリップ (C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

ところで、最近やっとナイト・シャマランの『スプリット』を観て再確認したのは、わたしがこの手の展開がどうしようもなく好きだということだ。シャマランのシナリオは徹底していて、『サイン』にも『レディ・イン・ザ・ウォーター』にも『ヴィジット』にもこれがある(ワンパターンとも言えるかもしれないが)。これには、たんに話のクライマックスを演出する展開として優れているというだけでなく、なにかもっと重要なことがある気がしている。

これと関連して思い出すのは、ある知り合いが人間の発達についてある種の宿命論を語っていたことである。人間の成長にはその段階ごとに相応しい発達課題があるという。もちろん、その課題をショートカットすることはできる。対人関係において相手の考えを思い計れるようになるとか、自分の考えをちゃんと表明できるようになるとか。そういうことはたとえばそのコミュニティで一番えらい立ち位置を強引に維持したり、人の目をうかがい続けてうまく立ち回ったりすれば、そういう問題を回避したまま大人になることができるだろう。そういう大人は多いらしい(わたしも自信はない)。これが宿命論めいているのは、そうして大人になった人はその発達課題をクリアしたのではなく回避してきただけなので、何十歳になろうとも、その戦いの場に正面から立ち向かわないことには問題に悩まされたり不安に苛まれたりし続けるということだ。その人のストーリーがあとからずっと追いかけてくるのである。

逃げ切って人生をまっとうするパターンもあるに違いないし、そもそも決まった形の発達モデルをすべての人に適用させる考え方には抵抗もある(むろん、この観点からケヴィンたちを見ることはなおさら避けるべきだ*2)。でもまあ、だいたいはそういうもんなのかな、という妙な納得感もある話だ。心理学的にどうなのかは知らないが、少なくともそういう形式の何かがあるような気がする。以上、オチも論証もありません。

*1:このことは末吉さん(末吉日記のブログ主)に学んだ。

*2:『スプリット』もほぼ「全部ある」タイプの映画で良かった。気持ちだけじゃどうにもならないということと、思いによってなにもかも変わるということが共存していて、唸ってしまった。ケヴィンたちのようになろうだとか(彼・彼女らはそのようになろうとしたのではなく、否応なしになってしまったのだから)、それが良いとか悪いとかではなく、そのような存在が世界に一つあるだけで諸々が救われる。そういうこともある。そして衝撃の"Rejoice! The broken are the more evolved. Rejoice..." ある種のポジティヴさだけを称揚する思想は、彼らについて語る言葉をもたない。以下蛇足。『スプリット』についてのブログは例の別作品との連関を強調するものばかりでちょっと悲しかった。お話とお話を結びつけたり、すでに評価されている過去のお話の断片を持ち込んで観客を喜ばせるのは勝手にやればいいし、事実わたしも大喜びするんだけど、それだけでいいのかという気持ちになる。もし映画の観客がその手のリンクやサンプリングのことしか話題に出さないならば、その映画は失敗だったということになる。たぶんこの個人的な問題意識のせいでキンプリもあまり好きになれなかった。プリティーリズムの亡霊を見せられている気がしたので。なぜかキンプラはめちゃくちゃよかった。Et cetra.