『動物園ものがたり』における嘘

芸カ15で頒布した山田由香本のおかげでしょうか。『動物園ものがたり』(注:amazonへのリンク)を読んでくれた人が何人か出てきたもよう。めちゃくちゃいいでしょ。私が書いた文章なんて消し飛ぶほどよかったでしょ。本はつねに無限によい。それについて書かれたものはそこで止まるが、本そのものは読まれる度に更新されて、もっと良くなっていく。もちろん読み手は作品のポテンシャルを引き出そうとするけれど、それはその作品自体のポテンシャルがあってこそだ。

エイプリルフールということで、『動物園ものがたり』に出てくる嘘に着目してみようと思う。じつはこの作品、きわめて効果的に嘘が用いられているのである。その描写を取り上げることで、いま一度、嘘が有する物語内外の機能について考えてみたい……みたかったのだが、時間がかかりそうなので不完全なまま公開する。

1. まあちゃんのうそ

『動物園ものがたり』のあらすじを簡潔に言えば、動物園のなかで「自分から」迷子になったまあちゃんが、老夫婦や飼育員のおにいさん、カバの親子などととふれあい、最後にまた両親のもとに帰っていく、というものである。とはいえ、それによってまあちゃんの成長が描かれているというわけではない。みんながみんな、なにかを少しだけ変化させたり、自分のなにかを再確認したりする。ほんとうにただそれだけなのに、彼らが織り成すパースペクティヴの交差はやはり、それ自体が出来事と呼ばれるにふさわしい。最高なんだよな。

パースペクティヴの交差は間違いなく『動物園ものがたり』を構成する主要な形式である。この物語は基本的に一人称で語られている。つまり基本的には、語り手の心情がストレートに文章に反映されている。一人称の語りそれ自体においては作者の仕掛けはないと私は考える。その代わりに、様々な語り手に対して、別の人物たちの身振りと台詞を上演させてやることで、互いにその身振りと台詞の意味を考えさせるのである。私たち読者は一人称の語りを読む度に、他者の身振りと台詞をその語り手とともに考えることになる。月並みにいえば、「他人の気持ちになって考える」ということを、小説において読み手に実践させようとしているのではないか*1。この点で『動物園ものがたり』はきわめて教育的である。

明示的な嘘は二度語られる。まあちゃんがつく嘘だ。

「きょうは、ひとりできたの?」
 と、おばあさんが聞いたので、
「ううん、おとうさんとおかあさんが、ここでまってなさいって、いったの」
 と、まあちゃんは、うそをつきました。
 だって、まあちゃんは、ほんとうは、まい子なのですから。

(『動物園ものがたり』12頁)

まあちゃんはじぶんから迷子になった。朝から喧嘩をしている両親に愛想をつかして、まあちゃんは一人になりたかったのだ。でも、そのことを言っても信じてくれないだろうから、彼女は嘘をつくのである。

 おにいさんは、ふりかえって、まあちゃんのことを見つめました。きっと、へんな子だと思ったんでしょう。まい子だと、感づいたのかもしれません。
 でも、いくらまあちゃんが、「じぶんから、まい子になった」といっても、信じてはくれないでしょう。それで、まあちゃんは、
「おとうさんとおかあさんが、カバのところで、まっていなさいって」
 と、うそをつきました。
 それを聞いて、おにいさんは安心したらしく、にっこりとほほえみました。

(『動物園ものがたり』52-53頁)

この直後に、まあちゃんが自分が嘘をついたことに罪悪感(「いやな気持ち」)を覚えている様が一人称で語られている。それでも彼女が嘘をついたのは、そうしなければ両親のもとに連れ戻されるからだ。迷子は親のもとへ帰さなければならない。だが、まあちゃんはある意味で親離れし始めている。この外観と内実のギャップが彼女に嘘をつかせる。言葉によって、ギャップが埋められるのである。

まあちゃんの語りが重要なのは、この嘘が成功した嘘として示されている点だ。つまり、この嘘を嘘として知っているのはまあちゃんだけであって、それ以外のみんなはまあちゃんが自発的な迷子であることを知らないままなのである。かくして外観と内実のギャップは、嘘によって埋められるとともに強調されることになる。他方で、多くの登場人物は他人から見られた外観だけではわからないような気持ちや事情を抱えているということが、かたちを変えて幾度も語られる。彼らのほとんどは別に嘘をついているわけではない。しかし、まあちゃんの嘘はこうしたギャップが存在することをその行為を通じて読者に(あるいは子どもに)わからせるのである。

2.「なぜカバはしゃべらないんだろう」*2

嘘は言葉によってなされる。二つ目の引用のところで、飼育員のおにいさん(小林くん)はすっかりまあちゃんの嘘に騙されている。だが面白いのは、小林くんはじつは、まあちゃんの外観を見て、彼女がふつうの迷子ではないということに最初から気づいていたということである。

 ずいぶん長いこと、この子は、ウメのことを見ていた。しかも、ひとりきりで。
 小学校の二年生か、三年生ぐらいだろうか。ひとりで動物園にくるには、まだはやい。
 どうしたんだろう。まい子だろうか。
 動物園には、まい子が多い。これだけひろい動物園だから、それもしかたない。
 いままで、なんどか、まい子を見たけれど、その子たちはみんな、ないているか、いっしょうけんめい、家ぞくをさがしているかだった。
 でも、この子はちがう。
 ないてもいないし、だれかをさがしているわけでも、なさそうだ。
 きっと、カバが大すきで、家ぞくがほかの動物を見ているあいだ、「ここでまっている」とでも、いったのだろう。   

(『動物園ものがたり』29頁、31頁)

最後の段落での推測はあやまりである。そして、この推測にぴったりそう嘘をつかれたために、小林くんはこの物語を信じてしまう。でも、まあちゃんが迷子ではないということにはちゃんと気づいていた。この本を構成する主題はまさに、私たちのあいだに存在する様々なギャップであると言えるだろう。このギャップあるいは分離は、言葉によって埋められるとともに、まさに言葉によって生じるのである。

ドリトル先生」みたいに、動物と話ができたらいいのになあ。そうすれば、動物たちがなにをしてほしいのか、すぐわかるし、病気のときだって、どこがいたいのか、どこがくるしいのか、すぐにおしえてもらえるのに。
 でも、動物は、ぼくたちにしゃべってはくれない。だから、ぼくたちは、動物がなにをいいたいのか、いっしょうけんめい、わかろうとしなくちゃいけない。

(『動物園ものがたり』63頁)

動物は言葉を話さない。少なくとも、カバは話さない。だから、飼育員は動物たちの動きをよく見て、彼らの体調を把握しなければならない。動物たちの状態を理解することには知識や経験がものを言うだろう。これは完全に素人の感想となるが、ときには想像力を働かせて動物たちを擬人化することだって役に立つことがあるに違いない。実際に小林くんは、「こういう行動をとったら自分はどういう気持ちになるのか」といった観点から動物たちの気持ちを読み取ろうとしているように見える。もちろん、そうして読み取られた相手の気持ちがじつは大間違いだということもありうるだろう。それがとんでもない失敗を招くこともあるかもしれない(動物に「心の理論」を適用してよいかという問題を措くにしても)。

ただ、これに関しては逆の観点から見なければならない。ここでの動物は言葉をもたない。つまり、嘘をつかないのである*3。つまり、カバの気持ちはいうなれば、つねにそのままその外観に現れているのである。それに対して、まあちゃんの嘘は素晴らしい対比として響く。言葉さえあれば気持ちが理解できるのになあ、と思っていたおにいさんが、その言葉によって欺かれているのだから。

3. まるでなかよしみたいに

小林くんによる擬人的理解だけでなく、この作品では比喩的なもの一般が大きな役割をもっていると私は思う。「まるで〜のようだ」という直喩の表現は、ある意味では嘘である。「ほんとうは〜でないのだが」という意味が含意されているからだ。しかし、そのように喩えられる在り様、つまりは身振り、外観それ自体は紛れもない事実であるとも言える。

この本の終わり頃に、三つめの嘘が現れる。それは嘘であるが、嘘であると宣言されはしない。もとより、そんなものは嘘とはいえないのかもしれない。この嘘は、外から見られた嘘である。まあちゃんの嘘は、まあちゃんの一人称の語りのなかで嘘として宣言されているが、外から見ればやはり一つの台詞だったのだ。

まあちゃんたちは、動物園の中にあるレストランで、スパゲッティを食べました。いつもだったら、おかあさんが、おべんとうをつくってくれるのですが、
「ねぼうして、おべんとうをつくる時間がなかったの」
と、おかあさんは、いっていました。

(『動物園ものがたり』113頁)

これは大嘘である。まあちゃんのお母さんとお父さんはその日の朝も喧嘩をしていた。お弁当にまあちゃんのきらいなブロッコリーを入れる、入れないという些細なことで。お母さんはまあちゃんにブロッコリーを好きになってほしくてお弁当に入れようとしたが、嫌いなものを食べさせるなんてとお父さんに反対されたのである。まあちゃんが起きてきたことで、その喧嘩は中止され二人は押し黙る。それが朝の出来事であった。この結果として、お弁当自体がなしになったということだろう。

ただしこの喧嘩はそれでも、二人が各々でまあちゃんのためになることをしようと思ってのことだった。でも、こうして喧嘩ばかりしている二人のことがいやになって、まあちゃんは自分から迷子になったのである。このお母さんの一人称の語り手とする章の一つのなかで、次のような会話がなされる(話し相手はお父さん)。

 わたしは、まあちゃんの、いいおかあさんになろうと思って、いっしょうけんめい、がんばった。
 なおくん〔注:おとうさん〕も、まあちゃんの、いいおとうさんになろうと思って、やっぱりがんばっていた。
 でも、そのせいで、わたしたちは、ときどき、なかよしじゃなくなってしまう。
「あのね、わたし、子どものとき、おとうさんとおかあさんに、なかよくしてほしかった」
 わたしがそういうと、なおくんは、下を見て、じっとだまっていた。
「いいおとうさんじゃなくても、いいおかあさんじゃなくてもいいから、わたしたちになかよくしてほしいって、まあちゃんは思っているのよ」
「……そうだな」

(『動物園ものがたり』74頁)

こうして改心した二人は、やっとまあちゃんを発見する。そのシーンはまあちゃんの一人称によって語られる。お母さんとお父さんは順番にまあちゃんに対して謝る。まずまあちゃんはこのことに驚く。いわく、まあちゃんは二人に謝られたことなんてなかったそうである。そしてそのあとに「もっとびっくりすること」が起こる。

 おとうさんとおかあさんが、手をつないでいる!
 たぶん、きっと、ううん、ぜったい、まあちゃんは、おとうさんとおかあさんが、手をつないでいるところなんて、見たことはありません。でも、いまは、ふたりが、まるでなかよしみたいに、手をつないでいます。

(『動物園ものがたり』94頁)

「手をつなぐ」というのは、このお話のなかでは「なかよし」の象徴である。まあちゃんもお母さんも、仲良しの老夫婦が手をつないでいることに着目していることが、ていねいに描かれている。無粋な言い方をすれば、伏線が張られている。では、お母さんとお父さんはほんとうに「なかよし」になったのだろうか? 必ずしもそうではないだろう。言葉の嘘によって朝の喧嘩を無かったことにしたように、手をつなぐという身振りは「なかよし」を演じるのである。

では、この「なかよし」は嘘なのだろうか? そしてまあちゃんは、それに騙されているのだろうか? 必ずしもそうではないだろう。お母さんとお父さんはなにより、まあちゃんのためになかよしでいる必要があることに気づいたのだ。なかよしを演じるということをたんなる嘘以上のものを含んでいる。それは結果として、まあちゃんの帰るべき「おうち」を壊さずにいることに、家族を安定させることになるはずだ。このとき、お父さんとお母さんにとっての「なかよし」とはまさにこの家族の安定である。手をつなぐという身振りはその意味で、なんらの嘘も含んでいない。ふたりにとっては、それこそが「なかよし」なのではないか。

そして、これは推測に過ぎないのだが、おそらくまあちゃんもこのことに気づいているのではないだろうか。『動物園ものがたり』を読んでくれた人ならわかるだろうが、まあちゃんは非常に賢い子だ。つくりかけのお弁当箱を前にして押し黙るお母さんとお父さんを見て、まあちゃんが何も思わなかったはずはない。「まるでなかよしみたいに」という比喩はここで、幾重もの響きをもつのである。この文章はなんらかの欺瞞を暴きたいのではない。そうではなく、よい大人を演じることにも、よい子どもを演じることにも嘘偽り以上のものがあり、そういうところに生活があるのだなあ、ということである*4

*1:作者のあとがきにはこのねらいが簡潔に示されている。

*2:『動物園ものがたり』第六章のタイトル

*3:実際に動物が相手を騙す行為をしうるかどうかは別である。もっというと、ここで問題になっているのは、身振りでなく言語によって内実(さりとてこの内実とは?)と異なることを伝えるということである。

*4:クリスマスの朝にサンタを信じて喜ぶ「フリ」をしなかったとは言わせない。