運命的偶然、あるいは勝負の放棄:第162話「☆めちゃパニック☆」詳論

アイカツ!』における山田由香の脚本では往々にして、同じ事柄・構造・モチーフが様々な差異をまといつつ反復されます。このことを【162:☆めちゃパニック☆】の検討を通じて見ていきます。私が示したいのは、この回には様々な反復が仕掛けられ、かつあるモチーフの意味合いがそれを通じて変容させられているということです。このエピソードにおいては様々な観客とショーの関係が反復され、そのなかで「笑い」というモチーフが表現するものが変容されていくのです。

結局、運命的偶然とは何だったのか?

【161:大阪アイドルものがたり】に引き続いて登場するお笑いアイドル堂島ニーナは、「運命的偶然」というきわめて特徴的な言葉を用いる。で、「運命的偶然」って結局なんなの? おそらく多くの視聴者を悩ませたと思われるこの問いに、一つの答えを与えておきたい(もしかして、悩んでおいででない?)。それは端的に言えば「出会い」に関わる。ヒントは、ニーナ自身がこの言葉について解説する台詞のなかにある。

堂島ニーナ「これはきっと、めちゃ運命的偶然やで!」
井津藻見輝ディレクター「その心は?」
堂島ニーナ「みなさんご存知の通り、わたしも大阪出身ではありません。お笑いもできるアイドルを目指して、なにわ天下一学園に入学しましたが、まだまだ勉強の毎日です。でも、今回ルミナス姐さんたちとロケに行けるなんて、こんなチャンス滅多にないんやで! めいっぱい笑ってもらうんやで!」

それで答えたつもりかーい! とツッコミを入れたくなること必至である。だがおそらく、ニーナは彼女なりにちゃんと答えたのである。彼女の言いたいことはこうだろう。ニーナは、彼女自信の笑顔を与えたいという目的と曲がりくねった経緯でいまここにいるのであり、ルミナスの三人もまた、あくまで全国ツアーという独自の目的で大阪に訪れただけである。各々の目的に照らし合わせたとき、彼女たちがこの大阪で出会う必然性はじつはない。各々が異なる目的や原因を有する者どもの出会い。ニーナとルミナスという、あくまで行き先を異とする二つの系列がある一点において交差すること。ここに運命的偶然として出会いの本質がある。堂島ニーナが歌う楽曲『ミエルミエール』の歌詞を思い出しておくのは無駄ではないだろう。それはまさに「たったひとつ 出会えるときの奇跡」なのである。実際にニーナは、他の箇所でも「出会い」と「運命的偶然」に言及している。

「まさかこんなところであのケンちゃんに出会ってしまうなんて、これもまた、めちゃ運命的偶然やで!」


「はい! みなさんと会えたこと、めちゃ運命的偶然を大切に、この大阪でこれからもアイカツしていくやで!」

なるほど、ニーナが運命的偶然と呼んでいるのはある種の「出会い」のことであると仮定してもよかろう。しかし、いま述べたように、各々が異なる目的や原因を有する者どもの出会い、二つの系列の交差としての出会いとして運命的偶然を理解することは行き過ぎた読みでないと言い切れるだろうか。この疑問をてこにして、このエピソードの細部にもう少しだけ目を向けてみることにしよう。

「笑い」というモチーフ

言うまでもなく、このエピソードを駆動させるモチーフは「笑い」であろう。これ以上に反復される要素はほかに見つけようがない。このモチーフについては冒頭からすでに、回想という仕方で過去エピソードが明示的に、かつ効果的に参照されている。

スミレ「笑い、ですか」
あかり「まぐろ御殿に出たとき、まぐろさんが、あんなに真剣に笑いに取り組んでいるのを観て、笑いがどんなに難しいか、よくわかった」
ひなき「笑いが甘くないってことは、この前なにわ天下一学園を見てもわかったよね」

あかりの台詞の際に【129:トークの花道】、ひなきの台詞の際に【161:大阪アイドルものがたり】のカットが引用されている。こうしてスムーズにお笑いというモチーフの導入を済ませていることがわかるだろう。だが重要なのは、こうして引用されたエピソードで「お笑い」はどのように描かれていたかである。

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第129話において、笑いのための準備を怠らないまぐろさん(図1、図2)/第161話において、笑いのために特訓する堂島ニーナ(図3、図4)※ただし図4の引用はもっとあとで、ケンちゃんとのラストバトル直前になされる
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO 動画配信サービス「あにてれ」より引用(以下の図も同様)

このエピソードでは、ルミナスの面々はテレビ番組「踊る♡まぐろ御殿」でうまくトークするために様々な準備に取り組むことになる。たとえば、話題のためのアイデア出し、自己紹介の練習、キャラ作り、等々。こうした様々な練習を重ねて、彼女らは本番に臨むのである。この準備の過程で、「トークの達人」と思われていたまぐろさんもまた、こまめにメモを取り、他の番組をチェックし、面白いと思った他人のアイデアを柔軟に採用するなど、じつは面白さのための努力を怠らない人だったということが判明する。つまり、第129話における「笑い」というモチーフは、たんなる生理的な変化としての「笑い」やショーとしての「笑い(お笑い)」だけを示すものではなかったのだ。むしろ、そこで「笑い」によって表現されるテーマは、しっかり準備をしてことに臨むこと、そのための努力を怠らないことにまつわる*1。本来の意味での「芸能」人、すなわち芸事を仕事にする者がもつべき心構えや営みが論じられているのである。

そう、「笑いが甘くない」ということはつまり、そのためには入念な準備と下積み(修行)が必要だということである。このことは後に挿入される紅林珠璃たちによるコメンタリーによっても強調されている。しかし、そんな困難な仕事に、しかも笑いの本場大阪で、果たしてド素人のルミナスがうまく立ち回れるのだろうか。それはひなきの言うとおり、あまりにも「めちゃくちゃハードル高い」ことではないだろうか*2。そんなところへ先に引いた「運命的偶然」をめぐるニーナの発言が挿入されるのである。

あかり「うん、そうだね。やってみよう」
スミレ「挑戦、だね」
ひなき「ルミナス、お笑いにトライしちゃうぜ!」

それまでは思いもしなかったことが往々にして起こりうるということ。お笑いもまた、やってみなければわからないのだ。こうして彼女たちは様々な出会いへと身を投ずることになる。

三種の観客:老人・女子高生・幼稚園児

「お笑いを届けましょうツアー」は三つのタイプの観客+ケンちゃん(図8)を相手にしている。ケンちゃんについては後述する。

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老人たち(図5)/女子高生たち(図6)/幼稚園児たち(図7)/お笑いマスターケンちゃん(図8)
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

最初は老人たちである(図5)。彼・彼女らは、ニーナたちがスベってしまっても子供を見守るような目で愛でて笑顔になり、それどころか自分たちで勝手にネタをやって勝手に笑っている。氷上スミレが「私たち、(もう)中学生……」と漏らしているように、彼女たちがやろうとしていることと、老人たちに子供扱いされていることのあいだには大きな齟齬がある。

次は女子高生たちである(図6)。井津藻Dによれば、女子高生くらいの年頃は「箸が転がるのも面白い年頃」だそうである。彼の女子高校生観については深入りしないでおくが、ともかく彼女らもまた、あかりたちが何をやっても「超ウケる」客として描かれている。それはもう、準備したネタなんて無駄だったといわんばかりである。ここでも、ニーナの努力や計算が笑いとして成就しているわけではない。

最後はケンちゃんを除く幼稚園児たちである(図7)。彼・彼女らはあかりたちの演劇仕立てのお笑いを筋通りに受け取り、そこから感情を引き出している。あえて私情を挟むが、私は幼稚園児たちの反応が一番好きだ。そのモードは少なくとも、相手をたかが子ども(向け)と言ってなんらかの出来合いのカテゴリーに収めてしまうのでもないし、なんであれ笑いと喜びへと結びつけることで逆説的に対象に無関心(=無差別)になってしまうのでもない。むろん、子どもたちは話の筋をひたすら追うだけであり、そこにはある種の無力が示されているとも言える。しかし、作品を「真に受ける」ことから始めずに、我々はいったいどこへ行けるというのだろうか?*3

じつは最初、このタイプの違いがじつは『アイカツ!』の視聴者である我々の諸類型を示しているのではないか、などと考えたことがあった(その線で行けば私はここにもっと非難がましい文章を書いたことになる)。だが、まずはもう少しこのエピソードを読み込んでいこう。事柄はそう単純ではない。我々はまだ161話におけるもう一つの客層を見逃している。それは、スターライト学園の食堂であかりたちの活躍を見守る紅林珠璃、天羽まどか、黒沢凛、大地のの、白樺リサの五人である。

出会いを眺める第三の目

別の原稿でもホログラム演出について少し触れたが、じつは161話でもそれは効果的に用いられている。ルミナス+ニーナを乗せて次の現場へと移動するバスを横から写す映像にはホログラムのエフェクトがかかっており、それによって、食堂で彼女らの活躍を見守るジュリやののリサ、まどりんの視点による映像へと変化させられている。このことはとても重要だろう。なぜなら、それは「お笑いを届けましょうツアー」の全貌が我々視聴者に見られているのと同じように、それが珠璃たちにも見られているということを示すからだ*4

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スターライト学園の食堂でニーナたちを見守る面々
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

そうだ、我々はこのことになかなか気づけないのだ。紅林珠璃たちがホログラムで「お笑いを届けましょうツアー」を眺めているくだりはなぜ必要なのだろうか。ごく狭い意味で「笑い」というモチーフを描くのであれば、演者と観客しか必要ないはずである。だが珠璃たちはまさに、芸人と客とに対する第三者の視点をもつ者として我々の前に立ち現れている。これはおそらくたんに楽屋ネタをやるためだけではないだろう。そうではなく、彼女らは我々の視聴体験のための導線としての役割を果たしているのではないか。つまり、彼女らは我々視聴者の代理にほかならない。重要なのは、ここで描かれているのはニーナ一行が見せるお笑いなのではなく、彼女たちと観客たちの出会いそのものだということだ。そのために両者をともども相対化する珠璃たちが登場するのは理にかなっている。我々は、老人や女子高生、幼稚園児となってニーナたちと出会うのではない。我々は紅林珠璃たちとともに、ニーナたちが経る様々な出会いそのものを見なければならないのである*5

最初のコメンタリー(老人ホームから女子高生のいるステージに移動するあいだ)では、お笑いを極めるためには長い年月が必要であるということが天羽まどかによって言われる。お笑いの厳しさ、つまり「笑いは甘くない」ということがここでも繰り返し強調されている。これによって、老人ホームでの失敗は笑いの厳しさを示すとともに、ニーナたちの準備不足、経験不足といった意味合いを帯びることになる。このトーンは第二のコメンタリー(女子高生ステージから幼稚園に移動するあいだ)でも基本的には変わらない。だが、最後の最後で新たな文脈が付加される。またもやキーパーソンは紅林珠璃である。彼女はこう言う。

「最後の勝負は、いったいどこへ?」

ここが転換点である(ここで飛べ!)。そうなのだ。まさしくルミナス+ニーナはこれまで観客と「勝負」していたのだ。これまでの「笑い」をめぐる演出がここで一挙に、努力とともに勝負というテーマを帯びることになる。そしてそれゆえに、お笑いマスター・ケンちゃんがラスボスとして登場するという流れに自然と向かうのである。

先読みの達人と最初の欲望への回帰

このように「笑い」というモチーフに込められてきた努力や挑戦、勝負といったテーマは、お笑いマスター・ケンちゃんとのラストバトルにおいてさらなる変容を遂げる。ケンちゃん(前掲の図8)は、お笑いの達人とされるが、その描写をみれば正確には、先読みの達人として描かれていることがわかる。一般的に笑い・おかしみは、ある種の意外性によって引き起こされると言えるかもしれない(ここで「笑い」論をやるつもりはないが)。だがそれに対してケンちゃんは、意外性の型のようなものを熟知しており、ニーナたちがやるネタのオチを、ことごとく先読みできてしまうのである。

そして、ほんとうに最後のショー*6を控えたニーナはこう言う。

「私、ケンちゃんに笑ってもらいたい。私、今日1日、どうしたら受けるか、ずっとお客さんと勝負していた気がするんです。(...)私はお客さんと勝負するためじゃなくて、みんなを笑顔にしたいと思ってアイドルになったんです。だから、勝つとか負けるとか関係なく、ケンちゃんに思いっきり楽しんで欲しい。笑顔になって欲しいです。(…)この玉手箱に私たちの思いを、すべて込めるやで」

これはつまり勝負の放棄である。笑いは計算によって生み出すことができるという信条をもっていたニーナが、最後の最後に計算を手放すこと。客から「笑い」を勝ち取るという関係を脱臼させて、むしろ客に「笑顔」を与えるという関係へと回帰すること。ここではあくまで大きく「笑い」というモチーフが維持されつつも、「笑い」から「笑顔」への転換がなされていることがわかる。つまり、その内実は大きく変化しているのである。これは偶然ではないと私は思う。このエピソードでは全編を通じて、多少違和感がある場合でも「お笑い」ではなく「笑い」というように徹底されているからだ(いくつかの例外はあるが、注意してみれば比率は明らかである)。それは『アイカツ!』の他のエピソードでもしばしば描かれる「笑顔」のモチーフへとこのエピソードをソフトランディングさせるための気遣いだったのではないか。

結果として、ニーナは玉手箱のなかに仕込んだキャラ弁によってケンちゃんから笑いを勝ち取り、彼に認められるようになった。

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あかり「ケンちゃんや子どもたちに、笑い(=笑顔)を届けよう!」
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

だが、このキャラ弁を、それまでのネタと同じ系列のなかで考えてしまうと、ニーナが出会いによって何を変容させたのかがわからなくなってしまうだろう。その場合、キャラ弁によって勝ち得た笑いはいわば、まぐれあたりの成功だということになる。私の考えでは、それは一面においてしか正しくはない。たしかにこれは、ニーナとケンちゃんのそれぞれの読みが交差した結果として生じた、ある種のまぐれ、すなわち運命的偶然にほかならない。しかし、ニーナはむしろ勝負を放棄することによって、いま一度、笑顔を与えたい相手=こどもが好きなものに立ち返り、それを直球で見せることによってケンちゃんという大人びたこどもに今度こそ笑顔を届けようとしたのである*7。これはつまり、相手(子ども)とちゃんと向き合うことで、自分自身とも向き合うということでもある。ここには以上のような差異があったことを見逃してはならない。それは結果としてケンちゃんの笑いとして成就し、再び「お笑い」としての「笑い」へと回収されることになる。だがしかし、そのときこのモチーフによって表現されるものは大きく変容させられている。

結論

このエピソードにおけるお笑いショーとはなによりもまず、ニーナたちと観客の出会いであったのだ。そして、それはまさに、一つ一つが小さな運命的偶然にほかならない。たとえニーナの方である結果を想定しそれに向かうコースを計算したとしても、各々が別の目的や本性をもつ様々なお客を前にしたときには、成功には至ることはない。ルミナスとニーナが期せずして出会ったように、「お笑い」もまたお客とその笑いを目論む芸人との、一触即発の出会いなのである。このように、ここで演者と観客は、ある種のコミュニケーションをしていると言ってよい。かたや相手にあわせて出方を考え、かたや相手の動きに確実に変化を与えるのである。むろん、勝負もまた一種のコミュニケーションではあるだろう。しかし、ニーナの場合における「勝負」*8とは、相手のことを見ずに、また自分の本来の目的を忘れて笑いに取り組むことにほかならなかった(役に立たなさそうなツッコミの訓練など、結果に結びつかないスポ根的な特訓を想起すればよい)。

なるほど、それまでのショーもまた出会いには違いなかった。だがしかし、それは正確には出会い損ねだったと言えよう。ニーナはたしかに老人ホームでの失敗を踏まえて、女子高生を相手にするときには作戦を変えた。でもそれは根本的な作戦変更ではなかったのである。最後の幼稚園のステージにまで来てやっと、ケンちゃんとの出会いによってニーナは自身のもともとの欲望に気づき、それへと回帰し、そしてケンちゃん=子どもの好きなものを提示するという仕方でケンちゃんに向き合う。ここにおいて出会いがほんとうの意味で成就したのだ。

様々な出会いによるモチーフとニーナそれ自身の変化、これがこのエピソードの見どころだと筆者は考える。そして「出会いによる変化」によって、この回では出会いのなかで自己自身を知るということが描かれていたのではないだろうか。ここからは興味深いこともネガティブなこともともに多く語られうるだろうが、ひとまず言える最低限のことを示して論を終えたい。

 

*1:本稿ではモチーフとテーマをこのように使い分ける。つまり、どちらも反復される要素には違いないが、モチーフはより具体的であって、テーマはより概念的である。反復される要素すべてが必ずしもあるテーマを表現するとは限らない。周縁的なモチーフもあれば、プロットにとって核心的なモチーフもありうる。あまり厳密な定義ではないが、要は両者を区別し二段階で考えること、その相対性が勘所なのだろうと筆者は理解した。Cf. Abbott [2008], The Cambridge Introduction to Narrative, Cambridge University Press. p. 98 et seq.

*2:ひなき「笑いの本場の大阪で笑いを届けるなんて、めちゃくちゃハードル高いぜ」

*3:少なくとも、はじめから結論が分かりきった社会批評のようなものに視聴体験を還元したくないならば、我々はこの子どもたちに学ぶべきだ。それはそれで意義があるにしても。

*4:ここで、カメラマンが一人のはずなのになぜ並走する車で外から映したような映像が撮られているのか、などと野暮なことは問うまい。

*5:このことをさらにホログラム演出そのものに着目して示してみたい。以下の分析は説得力に欠けるかもしれないが、どちらのサイドから見るかという点を強調する構図が多用されていることは事実である。また、本論は以下の分析とは独立に主張されうるものである。さて、ホログラム演出はじつは、冒頭からすでに用いられている。

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ルミナスサイドから見たホログラム(一枚目・二枚目)/学園長室サイドから見たホログラム(三枚目・四枚目)
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

冒頭で光石織姫学園長から連絡を受けたあかりたちは、アイカツフォンを通じて学園長室の面々と会話をしている。つまり、彼はホログラムという「窓」を通じて対話しているということだ。コレによく似た構図はじつは、このエピソードの全体において幾度も繰り返される。それはステージという「窓」を通じた観客と演者の対話である。このことはステージを隔てた両サイドからの視点を強調するカットによって示される。

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それぞれ対老人(一枚目・二枚目)、対女子高生(三枚目・四枚目)のステージにおける両サイドからの眺め
(C)BANDAI NAMCO Pictures Inc. (C)TV TOKYO

冒頭でルミナスと学園長らがホログラムを通じて対話していたように、ニーナたちも観客との対話の場にいたのである。我々がこのエピソードにおいて見せられているのはニーナたちのお笑いショー(だけ)ではない。そうではなく、互いに反転する二つの側からの視点の交差が執拗に描かれていたのだ

こうした特徴はやはり演出の仕事によるものと見たほうが良いだろうか(制作に詳しい人のアドバイス求む)。いずれ詳しく取り上げたいが、この回と同じく演出家、山地光人と山田由香がタッグを組んでいる【123:春のブーケ】でも駅の構内で異なるホームに瀬名翼と大空あかりを立たせることで、そのすれ違いや噛み合いが静的な構図によって示されているように思われる。

*6:始めの二つのステージと違い、幼稚園では三度の挑戦が描かれている。

*7:好きなものと笑顔の関係についてはたとえば【54:笑顔のヒミツ】を見よ。

*8:あるいはニーナの別の台詞によれば「対決」